<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>


スポンサーサイト


一定期間更新がないため広告を表示しています

** | - | - | -|


20世紀のポスター[タイポグラフィ]―デザインのちから・文字のちから


東京都庭園美術館で開催中の、20世紀のポスター[タイポグラフィ] —デザインのちから・文字のちからに行ってきました!
庭園の芝生広場で相方氏にちびさんを遊ばせてもらっているあいだに、私だけ美術館の中へ。

旧朝香宮邸がそのまま美術館になった、東京都庭園美術館。これまでに取材やプライベートで何度も訪問してきたのですが、他の美術館と違って、その一回一回の記憶が、建物の石にしみ込むように残っていて、訪れるたびにどんどん空気が濃密になるような感覚があります。
特に、「庭園植物記」のレビューでお伺いしたときの印象は未だ生々しいまでの手触りで残っており、1階の大客室と2階に昇る階段のあたりには、紅色の気配がじわじわと滴るように滲み出していました。


以下、心に残った作品。

◆テオ・バルマー「バーゼル国際事務用品展」1928
鏡映しになった「büro」という単語が、強烈なエネルギーで画面を支配する、展覧会のタイトルにふさわしい威力を持ったポスター。文字にうちのめされるのって気持ちいい。

◆ヤン・チョヒルト「構成主義者展」1937
余白を多く取った、線と円に文字を絡ませたデザイン。一見穏やかに広がる白い地に、配置をさぐる快感と苦悩がせめぎあっている気配があってたまらない。

◆ヘルベルト・ロイピン「シュタインフェルス石鹸、お徳用」1943
「魔術的リアリズム」の本領発揮という感じの1枚。力強いのにどこか清潔な美しさがある、ロイピンの魅力にうっとり。

◆オトル・アイヒャー「造形芸術におけるファンタジーとグロテスク」1955
大学の講座の告知ポスター。不穏にうねる「形」、ぶつかり合う「色」、そこに落とされる「文字」。

◆アルミン・ホフマン「ヴィルヘルム・テル」1963
荒れた飛び気味のモノクロ写真の林檎に突き刺さる「TELL」の文字。どこかただの美談では終わらない、このエピソードのきなくささが感じられる画面。

◆アルミン・ホフマン「エル・リシツキー展」1966
黒い地に巧みに配された白いアルファベット、そしてその内に格納された文字たち・・・「劇中劇」の風情も。

◆アラン・フレッチャー「ART、「すべての芸術作品は時代の子供である−ヴァシリー・カンディンスキー」」1983
組体操のようにバランスをとるアルファベットたちがキュート。手描きの文字との組み合わせも、いつの時代にも色あせない、エヴァーグリーンな印象。

◆カリ・ピイッポ「ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」」1993
「H」のかたちに口をあける奈落・・・シュール!

◆ウッディ・パートル「Y」1994
のこぎりで斬られようとしている「X」の図。「Y」は、自分が「X」よりも新しくて進化したかたちだと思っているのかもしれないな〜。文字たちの自意識をのぞいてみたい。出番の多い「E」はちゃきちゃきした自信家、「Q」は変わり者だけれどおしゃれなおじさん、「P」はうわさ話の好きなおばさん。そんなイメージ。


ポスターやそこにあしらわれたタイポグラフィは、時代の子供のような顔をしながら、実は次の時代を呼ぶ役割もしていて。電車の連結部分の鉤のような、目的に沿ってかたちづくられた形状と、ぬうっと表れてくる存在感が楽しかったです。

順路の途中、2階のベランダから庭園が見えて、大はしゃぎで転げるように芝生を横断してゆくちびさんを目撃。西陽に照らされて髪の毛がきらきら輝いていて・・・なにか、完璧に閉じた幸福のアイコンのように見えて、ちょっと怖くなりました。その場でずっと眺めていたいような心地と今すぐ美術館を飛び出して駆け寄りたい気持ちに引き裂かれかけ、結局、急ぎ足で観覧を終わらせて、紅い気配を蹴散らすように階段を駆け下り、地面に足をつけて、ちびさんのもとへ向かいました。


** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


好きを伝えよう


アーティストの作品に触れて、「いいなあ」「好きだなあ」とこみあげてきた想いや感謝の気持ち。伝えたいのならそのときすぐに発信しないと、二度と届けることができなくなることもある。
(どうしたって間に合わないこともあるけれど。RBBなど、作品を知って「すばらしい!」と感動した直後に、前月に作者が急逝されたことを知り、しばらく衝撃から立ち直れなかった。)

仮に届いたから、間に合ったからどうなるのかなんて判らない。物理的に届いたところで、伝わりきるとも限らない。どんなに間に合っていたとしても、失ったときには必ず悔いが残るだろう。
完全なる自己満足だとよく判っている。
ただ、お仕事でもプライベートでも、たとえばアート作品のレビューを書いて、作家さんから「実はここを指摘されたのは初めてのことで、嬉しい」「自分でも気づけていなかったところがかたちになった」というおたよりをいただくような経験が少なからずあって、それが私に次の筆を執らせる力になっている。ささやかだけれど、意味が、光が生まれているような感覚。私の動くときの拠りどころになっている循環だ。

というわけで、最近、実生活でもweb上でも、「好き」を積極的に伝えていこうとしているこの頃。
先日、某イラストサイト様で、生まれて初めてキリ番というのを踏んだ。緊張しながら、日頃の感謝や感想と共に記念イラストのリクエストをさせてもらった。
そうしてプレゼントしていただいたのは、物語が始まる予感をはらんだ、「これから」の気配がざわめく、春のようなすばらしい1枚で。サイトに掲載されたそれを目にした大勢の人のうちで、これに霊感を得て新たな作品をつくってゆく人も多いだろうと思わされた。
「はじまり」を、その萌芽の段階から目撃できる贅沢な幸せと、傍観者としてだけではなくて、わずかながらでもその流れにたずさわることのできた嬉しさに、胸がふるえた。

前述のRBB。未だ完結していなかったサイドストーリーもあって、語られることのなかった物語の続きはいったい何処に行くんだろうなあ・・・と哀しく思っていたけれど、あれだけの力のある作品。担い手を変えて遥かに継がれてゆく何かは必ずあるはず。それは、残された者には救いとなるし、行ってしまった彼女のもとにも、世界をまたぐような大きな循環の波に乗って、私たちの祈りや感謝が届くかもしれない。


私たちはいつでも、終わりと始まりの入り交じる潮目に立っている。足を洗い続ける流れを、その感触を忘れないようにしよう。

** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


真夜中の板尾さん


大好きな服部一成さんの、緊迫感があって絶妙にギリギリなのに、風通しがよくて自由で、とにかく心地のよいデザインが炸裂している雑誌、「真夜中」
今号(No.12)もまた、すばらしかった!
川上未映子さんの小説の頁は、「アイスクリーム」というものに対する永遠の幻想(絶対に実体には届かない、むしろつきつめるほど遠ざかる)が紙のかたちをとって顕れたようなデザインだった。可愛らしいピンクや淡いすみれ色やエメラルドグリーンなど、色そのものは明るかったり甘かったりするのに、実のところちっとも甘くなんかないし、乾いている。そこが小説の「遠さ」「さみしさ」と呼応していて、素敵だった。
(余談だけれど、この「乾いた感じ+アイスクリーム売りの女の子」という組み合わせ、「空から降る一億の星」に出ていた柴咲コウさんを思い出す。長い爪でつまらなさそうにアイスクリームを差し出していた、世界と折り合いをつけられず、つねに居心地がわるそうだったあの子。)
それから、ヴァージニア・ウルフの言葉と、梶井照陰さんの写しとった波濤とが呼応しあう、とんでもなく生っぽい何かがその場で生まれては次々に胸に迫ってくる作品。息を詰めて見入った。

そしてそして・・・
いろいろな質問に、板尾さん(一応「芸人」という位置づけでの参加なのだけど、唯一無二の「板尾さん」としかいいようがない)と詩人の蜂飼耳さんと科学者の池内了さんが三者三様の答えを出してゆく特集!!
みなさん、ご自分の役回りを理解して、互いがくっきりと際だつよう職業の個性が前面に出るような回答をしていらっしゃるのだけれども、そのわかりやすさの向こうに個人の性質や美学も透けて見えて、でもそれすらも気遣いの範疇なのかもしれず・・・味わい深かった。みっつの頂点をもつ透き通った結晶が幾重にもかさなり、各層が絶え間なく運動していて全体の形や見えを変化させているイメージが浮かんだ。

板尾さんの回答はどれも驚くほど短く端的で、既成概念や言葉の意味をぺろんと裏返すような刺し込み具合で・・・むしろこれはなによりも「詩」なのでは、と思った。詩人の蜂飼さんは「詩人として文章で」回答したけれど、板尾さんは「詩で」答えている・・・どうしようもなく「詩になっちゃっている」感じ。
だってたとえばこんな具合。
「雪はどうして白い?」という質問に「仮に白い。」
「宇宙はどこまである?」に「自分のま後ろまで。」

(原文ママではなく、雰囲気です。ぜひ本誌で読んでみてください!)
・・・どれも、思わずこぼれた呟きのような平たさ・息継ぎの必要のないほどの短さなのに、身の毛がよだつような興奮を誘うのでした。「宇宙・・・」の答えは、眼に入った瞬間、自分の後頭部にぺたりと真夜中が貼りついたような・・・もしくは、後頭部がぽっかりと開いて暗い宇宙に明け渡されたような、酩酊感に酔わされました。他にも、「松ぼっくり」「コーヒーの香り」「ダイヤモンド」「夕暮れの空」などに対する答え、どれもすばらしかった〜!


疲れているとき、「真夜中」公式サイトにあるコンセプトを読むと、回復したり解き放たれたりする。

真夜中の星、写真は光、絵はともしび、デザインは夢。

このフレーズ、知った瞬間からずっと、心の奥に灯り続けている。

** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


きらめく七色の指輪



eteのクリスマス限定リングきらきら
ステンドグラスをイメージしたという、Radiantシリーズ。
七色に輝く教会の窓がなんとも可愛い・・・!! 
しんと冷えた冬の空気に建物の輪郭が磨かれているようすや、寒さでちょっと涙目になった瞳に映るにじんだ光までも表現されているようで・・・ ほんとにコンセプトも色もデザインも、キラキラしていて目が離せないったらないわとうっとり語っていたら、ちょっと早めのクリスマスプレゼントということで贈ってもらいました!
ありがとうございます!
ちびさんがいるのでふだんはつけられないけれど・・・ここぞというときに大切に使おうと思います。


額縁のようなクリスマス限定ボックスがまたすてきなのです。


eteのデザインはどれも、きゅっと心をつねるように掴まれる工夫と可愛らしさがあって、きっと対象年齢はもっと若い子なんだろうな〜(素材もお値段もお手頃だし)と思いつつもやっぱり惹かれてしまう。
ダイヤモンドの檻のようなFiligreeシリーズもアイデアが秀逸でたまらないし、果物のタルトそっくりなTarteシリーズも横顔(タルト生地の立ち上がり)がなんともおいしそうで可愛い。
(もし私が大学生だったら恋人にこれをねだっただろうな)という、華奢さをきわめたラインも。
お店のスタッフさんも、心底eteのアクセサリーが好きな感じで、つい長居して話し込んでしまいました。

私もこういうものをつくっていきたいな・・・きゅっとしてキラキラしていて、ひねりも効いているけれどまっすぐ届く、実は強いもの。



** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


日比谷公園に埋められたハート。



日比谷公園に敷かれた石のなかに、ハート形のものを発見ハート


こんな、雰囲気ある街灯のそばです。


「アーク灯」の解説があります。




** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


あけぼの色が実るとき




写真は、「銀座甘楽」の豆大福の函。眼にした瞬間、「あけぼの」の個人的な心象風景と呼応しました。

「あけぼの」という言葉を人生で最初に意識したのは、クラシックバレエ「コッペリア」の「あけぼのの精」だったように思います。
薔薇色と金色のグラデーションになったロングチュチュをまとって、夜が明けてゆくさまを表現する役どころ。パ・ド・ブレで徐々に染まりゆく空を、アントルシャ・カトルとサンクで早起きの小鳥たちを・・・と、パのひとつひとつで空気を目覚めさせてゆくような振り付けに憧れていました。
次に、小学校に入って買ってもらった、「日本のあけぼの」という、歴史漫画。国のかたちができつつあるようすが描かれていて、ほんとうに飛鳥の空に朝陽が昇るようだなーと思ったのを憶えています。
そして、小学校中学年ころに読み始めた、「枕草子」の「春はあけぼの。」。日本語の音とリズムを巧みに使えば大気の動きすらも紡ぐことができると知った、心の一冊(一節)です。その後、国語の授業でエッセイを書いたときに、添削した教育実習生の女の人が「あなたの文章は清少納言っぽい」とコメントしてくれて、感激しました。
その後、前述の「あけぼのの精」のソロを発表会で踊らせてもらえることになり、大感動。青→橙色に緩やかに転じてゆくライティングにもうっとりでした。
そうこうするうち、「眠れる森の美女」の古い翻訳を読んでいたら、「オーロラ姫」を「あけぼの姫」と書いてあって、「aurore」が北欧で見られるあの「オーロラ」ではなくて、「曙光」のことだと知りました。そういえばクラシックバレエでのオーロラ姫の衣装はピンク〜橙系が多いし、ソロの踊りには「コッペリア」の「あけぼのの精」に通じる動きが少なくありません。そうだったのね、と、胸のうちがゆるゆると明けてゆくような心地になりました。
そして大学生のころ、ゼミ合宿で、ひょんなことから先輩と2人で宿を抜けだして山のなかで話をしながら一夜を明かすことになり、初めて夜の終わりと朝の始まりを生で見た経験。四方の山の輪郭がじりじりと陽の色に縁取られてゆくさまや、空の緊張がほどけてゆくような夜明けの姿。話に夢中になって夜を明かすというこの大学生にもなって小学生のような体験自体、うっすら甘酸っぱいような雰囲気&白昼夢のようなつかみどころのなさ(2人とも眠気に負けかけていたので)に包まれていたため、「あけぼの」のイメージにその不思議な感触が加わりました。

そんな感じでじわじわ育ててきた、「あけぼの」のイメージ。その言葉を思うだけで、青紫色に薔薇色と金色がゆっくりと融け込んで、明るい光が花ひらいてゆく情景が眼前に広がります。

で、先日オープンした友人Mやんのウェブサイト「Le fruit de l'aurore 」
(ネーミングやデザインの経緯はこちら

彼女が日記に、私のことを嬉しい言葉で紹介してくれました。→こちら

実は、このご依頼を受けた直後、今まで貯め込んできた「あけぼの」のイメージがぱあっと広がったのです。明けゆく空の向こうから、あけぼの色に染まった果実をくわえた小鳥が楽しそうに、私の肩めがけて還ってくるのが見えました。
名前やデザインのアイデアはほとんど、その瞬間に浮かんでいたように思います。そして、MやんもほぼOKを出してくれたので、このうえなくスムーズに運んだ、楽しいお仕事でした。某洋菓子メーカー時代に苦楽をともにした経験と、蓄積されていたイメージとが、化学反応を起こしたのでしょう。

幼い頃からのひとつひとつの経験が、こんなふうに実ることもあるなんて。お仕事だけでなく、あらゆる人間活動はなべてこうしたものなのだと思いますが、こうして美しい果実が目に見えるかたちでなると、感慨もひとしおです☆


** | Art&Design | comments(2) | trackbacks(0)|


ブリューゲル版画の世界 〜 空飛ぶ魚、歩くゆでたまご


Bunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「ベルギー王立図書館所蔵 ブリューゲル版画の世界」 に行ってきました。
ブリューゲル(とボシュ)は、私にとって独特な、いわばアイドル的な位置づけにある画家。なのでここ数ヶ月、街でこの展覧会のポスターを見かけるたび、彼の作品世界の片鱗を眼にするたびに、頬がゆるんでしかたなかったです。




事前にお送りいただいたプレスリリース。どこかアリスの世界っぽい、キッチュで蠱惑的なデザイン。




切手部分にも、「大きな魚は小さな魚を食う」に出てくる、空飛ぶ魚が。


おめあては、ボシュにも通じる、聖書や民間伝承・諺に材を取った風刺画だったのだけれど、アルプスの雄大な自然をダイナミックに描き出した初期の作品群もすばらしかった!
殊に、「深い谷間のあるアルプスの風景」(1525/30-1569年)。光と風を孕んで絡みあう雲の流れ、そそり立つ岩山の剥き出しの肌の荒々しさなどが、エッチングの繊細な線で、時間の重みや生命の気配すべてを掬いあげるように丁寧に描かれていて、その、轟々と音を立てる自然の営みの姿が息をのむほどドラマチックでした。

そして、「七つの罪源」シリーズと「七つの徳目」シリーズ。
やっぱりどうしても、「罪源」のほうが、観ていておもしろかったです。画面の中の人間(うっかり人であらざるものに不可逆の変化をしているものも含め)たちも、好き勝手に振る舞っていきいきしているし・・・きっと、「罪源」の一見楽しそうな雰囲気に惹かれてしまう観賞者のことまで考えて描かれているのでしょう。「ほーらだからキケンなんだよ」と。
「徳目」シリーズは、擬人像がストイックな雰囲気をまとっているだけでなく、「愛徳(charity)」が、施しをする行為よりもパンに群がる群衆のほうに焦点があっていたり、「希望」では、大洪水と火事にみまわれて大変なことになっている街角(そんな情況でも「希望を忘れずに」ということなのでしょうが)の描写が前面に出ていたりして、全体に息苦しいムードが漂っています。「罪源」とのコントラストをつけるためだけではなく、ブリューゲルのある種あまのじゃくな性質が顕れているように思いました)

「罪源」のうち、特に好きだったのが「怠惰」。ロバやかたつむりなどの象徴的な動物がうろつき、怪物が擬人像へ誘惑の枕をさしだす傍らを、胴体のなごりのような老木を億劫そうに引き摺って移動する頭足類があり・・・。
読み解くことはかなわなかったのだけれど、遠景の、噴火しているチューリップのような山に妙に可愛らしい貌が貼りついているものが気になりました。
「嫉妬」の、擬人像が心臓を食べる表現や、画面中に散らばったたくさんの靴の寓意(ネーデルラントには、「足にふさわしい靴をはいていない」etc.靴にまつわる見栄や高望みへの戒めの諺が多くあるそう)も興味深かったです。
「大食」の、食べ過ぎてお腹が裂けても無理矢理縫い合わせてさらに食べ続けようとする巨大魚や、おかゆを口に運ぶ腕と食べる口だけあればいいという風情の頭腕人間のポップな存在感もよかった☆
「邪淫」は、神経を直に撫でられるような心地をもたらす不穏な突起をもった苺様の果実、ムール貝に咥えられた球体の中で交歓するカップルなど、ボシュの影響を感じさせる要素が多く見られます。ボシュと異なるのは、ブリューゲルは、耽美的な表現よりも、自分の生きた時代の文化を端的に写し取ろうとする表現を多く用いている点。また、画面のあちこちで散発的に繰り広げられるおぞましく愚かしい(でもどこかユーモラスな)寸劇たちが、ボシュの作品では画面全体に鳴り響くぴーんという透明な一音によって統合されているように感じられるのに比べ、ブリューゲルの作品では、各寸劇たちの繰り出すざわめきがひとつひとつリアルに耳元できこえてくるような近しさがあるところ。ブリューゲルの時代から現代まで、どれだけ時が隔たろうと立場が異なろうと、どうしても振り払うことのできない人間の性を思わせる、生々しい距離感です。

他に印象的だった作品−−・・・

「ロバが勉強のために学校に赴いたとしても、それがロバなら、馬となって戻ることはあるまい」という銘文をともなう「学校でのロバ」では、学校の教室内に頭をつっこんだロバが楽譜を見ながら鳴き方の練習をしています。そばには掛ける者のいない眼鏡が置かれており、これは「眼鏡も使わなければ何の役にたとうか」という諺のメタファであろうとのこと。しかし、ロバや眼鏡以上にあわれなのは、教室にあふれかえる子供たち。全員にゆきわたるだけの充分なテキストはあるのに、ほとんどの子供がまじめに取り組もうとせず、学校は崩壊の危機にさらされています。テキストを逆さまに持つ子供、持っているポーズだけで満足している子供、身の丈に合わない巨大なテキストを持とうとする者、蜂の巣に突っ込んで股のあいだから帳面を差し出す子供、本を収納する籠に自分が収まろうとする子供・・・ どれもユーモラスなのですが、怖ろしいのは彼らが皆、大人の貌をしているところ。
人間の愚かしさの普遍性や、教育を手に入れたからといって人と獣はしょせん紙一重であるという事実が浮き彫りにされています。

うす明るい哀しみが画面を支配する「誰でも」
昼間からカンテラを持って徘徊し、誰かの財産物の中をあさって何かを探し続ける老人たちは、「誰でもあらゆることに自分自身を求める」という諺の象徴。1本の帯をひっぱりあう老人と青年は、「誰でももっとも長いものを得ようとして引っ張る」、そして後景にかすむ戦場や教会は、「誰でも自分自身を知らない」の象徴。戦場にも教会にも、カンテラを持った老人の姿が見え、自己(利益)探究の果てに辿り着く場所が示されています。が、前景の、自分の暮らしまわりで無為に探索にいそしむ老人達はすでにかなりの高齢。立ち止まって遠くに眼をこらせば教会も見つかるのでしょうが、ほとんどの老人たちは、太陽とカンテラという明るすぎる光で眩んだ視界のなか、自分の眼と鼻の先のことしか見ようとしていないようです。

とってもおいしそうな「怠け者の天国」。ごちそうの並んだテーブルのなる木(枝には飲み物で充たされたコップも実っている)の根元で惰眠をむさぼる、装備を解いた聖職者・騎士・農民。家の屋根はタルトで葺かれ、垣根はソーセージ、庭にはパンケーキのサボテンが生えて、遠くにはそば粥の山とミルクの海。ローストされた鵞鳥が自らそっと皿の上に身を横たえ、焼き豚(背中がすでにちょっぴり切り取られている)はナイフを背負ったまま暢気に散歩し、ひばりの焼き鳥が飛んできて、あくびをしかけた騎士の口にダイブする。足のはえたゆでたまごが、上部をちょっと切ってスプーンを突っ込んだ状態で「どうぞ」と寄ってくる。
なんて可愛らしくて、どうしようもない情景・・・!!

大きな魚の腹を割くと中くらいの魚がたくさん出てきて、その中くらいの魚たちの口からは小さな魚が出てきて・・・という食物連鎖的マトリョーシカ風な「大きな魚は小さな魚を食う」。出てきた魚を他の魚がとろうとしていたり、貝が魚を襲おうとしていたり、魚をとって立ち去る人間がすでに足以外魚に変化していたり。食物連鎖のような有機的な連鎖からちょっと外れた、愚かしさの連鎖のようなものが描かれているように思いました。
会場で上映されていた、映像作品としてカバーされたものもおもしろかったです。あの空飛ぶ魚も、最後にふゆ〜っと飛んできて、可愛らしかった!


会場を進むうちに、どんどん、「もっともっとヘンなものが観たい!」という気分が湧いてくるような側面も。
人間と獣(異形のもの・身体が巣くわれて別のものに変容している過程にあるもの)が同居する作品では、人間はなんだかもやもやと頼りない存在感なのに対し、異形のものたちがくっきりと楽しそうに呼吸しているものだからなおさら。
そういえば、「奇面組の零くんが、マラソン大会の前に気合いを入れて準備体操をしていたら身体のパーツがごちゃまぜになってお腹に顔がきてしまったあれ」にそっくりな怪物もどこかにいました。



おみやげに、あの空飛ぶ魚を連れて帰りました。
Bunkamuraザ・ミュージアムの企画はいつも凝っていて、今回も物販におもしろいものがたくさんあって魅力的でした。あのスプーンつきの歩くゆでたまごのフィギュアも素敵でした。

作品内のあの奇矯でたまらなく可愛らしい怪物たちが、展覧会のビジュアルイメージになったり、おみやげになったり、映像作品のなかで動いたり。単体で取り出してアイコン的に扱われることへの是非には諸論ありますが、ブリューゲルならば未来の人の心に喰い込むインパクトを産み出せたことに満足して、この「ひとりあるき」をおもしろがってくれそうな気も。
ただ、フィギュアやマスコットなどを、戒めのためではなく、愛でる対象として身につけようとする現代人にはちょっぴりびっくりするかも☆


余談。
展覧会から帰ったあと、自分がつくったちびさん用のおもちゃを見たら、(なんだか「奴ら」っぽい・・・)と思いました。丸い顔の縁からさまざまな手触りを愉しむための突起をたくさんつけたりとか、小さな手への持ちやすさを追究した凹形など、目的に特化したデフォルメというところが。自作だけでなく、赤ちゃん用のおもちゃにはこうしたつくりのものが多くて、「ブリューゲルフィルタ」を通して見るとちょっとおもしろかったりします。

** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


純粋でアイデアいっぱいの鳥


博報堂ブランドデザインのウェブサイト

エントランスには、好きな付箋を3つ選ぶとキーワードが生成されるゲームが。

結構時間をかけて真剣に選んでみた結果、

「純粋でアイデアいっぱいの鳥」

に。

もう一度、あえて前のとはだぶらないようにして、のんびりした気分で選んでみたら、

「心地よくて対応力のあるロマンチスト」

に。

マイナスイメージの言葉が出てこないのは判っているけれど、それでもなんとなく嬉しく、ほわんと心のあたたまるキーワードばかり☆

そして、前者のときにまず選んで、後者のときもどうしても目がいってしまった(でも、違う結果がほしかったので、あえて選ばなかった)、ある模様。
これがきっと、私のなかの、譲れない何かを象徴しているんだろうな。

** | Art&Design | comments(2) | trackbacks(0)|


「どうやって、の前になぜ」


パナソニック電工汐留ミュージアムで開催中の「HANS COPER ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」に、お招きをいただいてうかがってきました。




ルーシー・リーの工房でその陶芸家としてのキャリアを開始したハンス・コパー。
初期の作品には、スリップ(泥しょう)を掛けては乾かして掻き取ってを繰り返す独特の表面装飾方法や、みかんの皮のようなぶつぶつした仕上げになる釉薬(ルーシーが好んだもので、当時一般受けはしなかったそう)など、ルーシーからの影響が読み取れるものが多くあります。とはいえ、どちらかというと静的で抑制のきいたルーシーの作品に比べて、なにかじりじりじわじわと熱い焦燥のような呟きが、作品の肌の奥からたちのぼってくるように感じられるコパーの作品は、早いうちから独自の個性を放っています。

独立してからの「建築時代」には、その名の通りパーツの組み合わせによる、誰も見たことのないような造形をともない、人間の身体感覚に訴えかけるような作品が多くつくられます。
コベントリー大聖堂の祭壇のために製作した巨大燭台、その不思議な威容。
スウィントン・コミュニティ・スクールの壁面に埋め込まれた「ウォール・ディスク」。たくさんの、壺の口のような、地球上の重さの先入観を破壊するしゃぼん玉のようなものが壁のあちらとこちらを繋ぐように据えられ、その穴から空気や音が自由に往き来できるようになっています。一見開放的なのですが、そのふと感覚のスイッチが軋む瞬間があって、壁だけだった時よりもずっと隔たりが出現しているように感じられることも。あちら側とこちら側にあきらかに異質な、越えるのを躊躇うような気配の差ができているのです。

円熟期に向かうと、彼ならではの「かたち」が次々に華開きます。
ろくろの跡を壺の腹側に据え、封筒状にひらいた口部をつけた高坏。コップ形の胴にしずく状の足のついた花器。
ごく薄いディスク状の口部をもつ丸瓶をつくり、次にそれに足をつけたバージョンをつくり、その後ディスクが足部と胴部の間に移動したものをつくり・・・と、おでんの具が移動するような作品展開をすることも。
「かたち」そして「重力」と自由に戯れ、「質感」と泥くさいまでに向き合って生み出される、半抽象の作品たちは、眼にあたらしいのに、どこか根源的な、怖いようなざらりとした手触りの懐かしさを呼び醒まします。平行宇宙にある、とても近しい存在の天体をひもとき、伝統的な器を眼にしているような・・・ そんなパラレル・ワールドに棲む生命体が、たとえば私たちの「縄文式土器」や「土偶」を見ることがあったら、きっと同種のざわざわを覚えることでしょう。



あざみの子房のかたちに似た「ティッスル(あざみ)・フォーム」、シャベルのような「スペード・フォーム」、そして、原始の女性像のようにもみえる逆三角形の造形物が鋭角の一点で台座に固定される「キクラデス・フォーム」。その独特の緊張感と母性的なあたたかみの生まれる境地に想いを馳せると、ときに壮絶な印象が胸に灼きつきます。
凍りつくほどの孤独な魂が、蒼く燃えながら、星々のあいだを旅し続けている映像が浮かぶのです。


記事タイトルは、コパーの言葉から。既存の概念にとらわれずにイメージを追究し続けた彼の真髄があらわれています。



** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|


未来系北欧風




日頃デンタルフロスを愛用していて、いろいろなメーカーやフレイバーを試してみているのだけれど、最近のお気に入りはクリニカのこれ。
シンプルなのにほんのりあたたかいデザインが素敵!
「Futuristic-Nordic」って感じ。

** | Art&Design | comments(0) | trackbacks(0)|